堀田 牧太郎
(立命館アジア太平洋大学教授)


(1)私たちの人権
 日本国憲法の適用を受けない地域・外国にいる日本人の人権を保護するにはどうしたらよいのだろうか。日本がある人権条約を批准していなかった場合はどうであろうか。また、日本に居住する外国人の人権は日本人とまったく同様に保護されるのであろうか。国家というものに属さない人々や、難民として流浪することを余儀なくされている人々に、保護の手をさしのべることはできないのであろうか。このような様々な問題に対しては、私たちはほとんどなす術を有していない。

(2)メルボルンで囚われの身となっている日本人
 上に述べたことが現実の問題となって現れているのが、このパン
フレットで扱われている「メルボルン事件」の被害者の方々の場合である。彼らは、日本の東京からマレーシアのクアラルンプルを経由して、オーストラリアのメルボルンに観光旅行にでかけた7名の日本人旅行者である。事実の詳細は、本書の各章にゆずるとして、基本的に重要なことは、(ア)英語をほとんど理解できない5名の人々が、警察のおとり捜査に協力しつつも、警察官による取り調べの中で自己に不利な供述をとられてしまったこと、(イ)やがて、刑事裁判にかけられ、裁判で使用されている英語をほとんど理解することができなかったのみならず、自分たちを守るための十分な防御の機会を与えられなかったこと、(ウ)裁判のさまざまな段階や過程で、非常に不十分な通訳しか与えられなかったこと、そして、(エ)自分の身に覚えのない罪で、今日もメルボルン郊外の刑務所で服役している、ということである。

(3)個人による国際人権機関への通報
 メルボルン事件の被害者を救う方法はあまり多くない。第1は、直接にオーストラリアのビクトリア州で救済のための法的手段、例えば再審の請求など、をすることである。また、オーストラリア連邦法務省に恩赦、その他の救済を求めたり、シドニーの連邦人権委員会に申し立てることもできる。さらに、わが国の当局を通じて、外国において無実の罪で服役している日本人の保護を求めることもできる。
 しかし、このようないずれの方法も特に裁判が確定している4名についてはあまり有効ではない。残された方法は、国際人権(自由権)規約(ICCPR)に基づきジュネーブの規約人権委員会に対して個人通報を行い、被害の救済をはかることしかない。日本は、この規約の第1選択議定書を批准していないので、日本国内からはこのような個人通報はできない。しかし、オーストラリアは批准しており、これまでに既に10数件の個人通報が行われており、そのうちのいくつかについては救済をはかるべきであるとの規約人権委員会の見解も出されている。
 事件の被害者と面談して了承を得た後、この事件の弁護団は1998年9月22日付けで「個人通報書」を規約人権委員会に送付した。この通報書においては、裁判の確定した4名の男女がそれぞれ通報者となり、何人も身体の自由及び安全を保障されると定める規約第9条、および刑事裁判における最低限の諸権利について保障されることについて定める第14条に違反して、メルボルン事件の刑事手続が進められたことなどを主張した。通報書は、国連人権センターが発行している模範通報書を参考にして作成され、必要とされる裁判記録、判決などを添付して、全部で226頁の大部のものとなった。
 通報書は、国際郵便で送付され、受理された。近く、補充報告書を追送付する予定である。

(4)人権の国際的保障
 メルボルン事件における被害者、支援者そして弁護団らが共通して抱く想いは、人権の国際的保障ということである。それは具体的には3つの内容を持っていると思われる。第1に、人権の保障はまさに普遍的でなければならないということである。1948年のユニバーサル・デクラレイションは、「世界」人権宣言と訳されているが、人権の保障は「地域」に限定されることなく、全ての時代・人、あらゆる状況に置かれた人間に対してあまねく適用される。
 第2に、人権保障の基準は「グローバル・スタンダード」(世界的基準)でなければならない。問題は、そのような国際的基準を、各国内においていかに「実現」・「実施」するかということである。すなわち、日本国内の問題を世界の場に持ち出す以上に、世界の基準を国内において生かす努力が、今や、国、自治体、団体、会社、組織、そして個人によって行われなければならないのである。そのため、現在は、人権保障の国内的実施機関の設置や、裁判官・検察官・弁護士などに対する国際人権法教育などの問題に議論が集まってきている。
 第3に、人権の保障は人の心の底からのうったえでなければならない。すべての人間はその尊厳と権利において平等(世界人権宣言第1条)なのであり、それが自らの言動に反映していなければ他人に人権を説き、人権保護を請求する資格はない。人権の保障は世俗的な主義・主張・利益と密接に関連してはいるが、しかしそれらとは隔絶したものである。逆に言えば、主義・主張が大きく隔たっていても、人権の促進を標榜する国、民族、人々は、その理性と良心とに基づいてその価値をいっそう高める行動をとることができるのである。それこそが世界人権宣言第1条の精神ではなかろうか。
 最後に、このパンフレットを手にとられる方々に対して、メルボルン事件へのご理解・ご協力と、また様々なかたちでのご支援をお願いする次第である。