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第3章では、無実を叫ぶ5人のうちのお1人である勝野正治さんが事件のいきさつを書いた「私の目から見た事件の概要について」という文章を弁護団で「抜粋」して紹介します。
◎出発前夜に、東京良男のマンションに、私、光男、A子さんが泊まった。
◎翌朝(出発当日)良男のマンションのすぐ近くにあったバス停留所で、浅見さんと私たち4名が合流した。
◎更に、成田空港の待ち合わせ場所に於いて、C子・B子さんとも合流し、参加者全員が揃った。そこで改めて自己紹介がなされた。
◎マレーシアのクアラルンプール空港に到着し、私たちを迎えたのは5〜6名からなるマレーシア人だった。中には顔色や肌が浅黒くいかにもマレーシア人らしく見えた者もいたが、しかしほとんどの者が中国系マレーシア人だったように思えた。
◎彼らは我々が空港に到着するや、すぐに我々の荷物を運んでくれた。荷物は空港の外に設置されていた駐車場へと運ばれ、我々も彼らと一緒に駐車場に同行した。
◎駐車場には2台の普通乗用車と1台のワゴン車が用意されてあった。
◎ワゴン車に荷を載せられたのは私、光男、浅見さん、A子さんの4名だった。そしていずれの荷物も、マレーシア人たちによりワゴン車に運び入れられた。
◎他の、良男、C子さん、B子さんは、乗用車のトランクや膝もとに荷を置いていた。
◎一台の乗用車に、私と光男、それにA子さんが一緒に乗り込み、もう一台の乗用車に良男と浅見さん、C子さん、B子さんが一緒に乗り込んで、分乗の状態でクアラルンプールの市街に向かった。迎えに来ていた一行は、おそらくワゴン車に乗っていたと思われる。
◎クアラルンプール市内の“さくらレストラン”で、我々全員とキャリー(仮名・以下同じ・編者注)を含むマレーシア人ガイドが一緒に夕食を取った。この時キャリーから紹介を初めて受けたが、直接の会話をすることは殆ど無く、もっぱら両隣に座っていた良男やC子さんらとの会話が多かった。この時キャリーから、ホテルのすぐ近くにはカジノもあるなど簡単な説明も受けた。約一時間かけた夕食を済ませ、レストランから出て、ホテルに向かうため一旦出発したが、その直後に乗用車は元の場所近くに戻った。
◎しかし予想とは全く異なり、顔色を変えたキャリーより、荷物が盗まれたとの知らせを我々は受けたのだった。特に私、光男、浅見さん、A子さんの4名は、持参してきた荷物の全部を盗まれたことになり、そのショックはかなりのものだった。一種のパニックと言っても過言ではなかった。事情を聞いた後、ほとんど互いが無言になってしまった程だった。その時私は目先のことばかり考えていた。荷物が無くなって起こるだろう困り事や不便さばかりに心が捕らわれてしまっていたのだった。
◎ただ荷物の盗まれた全員が、パスポートやチケットを良男に預けていたので無事だったことだけが救いに思えた。海外旅行に手慣れた良男が、搭乗の際の手続きや荷物の預け等を代行してくれていたので、パスポートや旅券の一切を皆が良男に預けていたからだった。
◎外国での不祥事ゆえ、現地に全くうとく言葉も使えない我々は、ただキャリーの指示に従わざるを得ない状態に置かれてしまっていた。
◎“とにかく荷物を捜すから、先にホテルに行くように”とキャリーより指示され、それについ従ってしまったが、それは幸いにパスポートだけは助かったという僅かな安堵感と、きっとキャリーらが盗まれた荷物を捜してくれるだろうとの、期待以上の思い込みが私にあったからだと思う。事実、車に乗ってしばらくしてから荷物が戻ってくる保証が何も無いことにようやく気が付いた程だった。じつにお粗末な話しである。
◎ホテルは時速80Km以上のスピードでも一時間以上もかかる遠方にあった。
◎ホテルは日本によくあるようなリゾートマンション風の造りで、サイズは3LDKだった。すぐ隣にはカジノもあったが、浮ついた気持ちを持っていた者は誰もいなかった。浅見さんはホテルに到着するやすぐ着のみ着のまま寝込んでしまったし、気晴らしに皆で向かったカジノも楽しい訳は無く、すぐホテルに戻った。私は着替えが無い為シャワーも浴びられずソファーでふて寝をしていた。他の者も似たような状態で過ごしていた。互いに話をしても何も結論が得られず、かえって新たな不安が募るばかりだったからだ。
◎夜もふけてから、“荷物を盗んだ犯人が分かったので、その者を捜していたがつかまえることは出来なかった。しかし盗まれた荷物が無事であることが分かったので、荷物は翌朝ホテルに届けさせるよう手を打ってある”との説明をキャリーより受けた。荷物の所在が分かったことと、荷物が戻ることを聞いて冷静さが戻った。あきらめかけていただけにこの知らせは本当にうれしいものだった。
◎翌朝遅く10時ころ、荷物が到着したことの知らせを受けたので、私はすぐに荷物の届いたというその別の部屋に荷物を取りに向かった。この時、たまたま私のそばにいたC子さんも好奇心からか、一緒に私について来て現状の一切を見ていた。
◎荷物の届いた別の部屋には日本から持ってきた私のバッグやショルダーは無く、二個の大きなスーツケースが置かれていた。
◎一つは私用として、もう一つは浅見さん用としてだとの説明を受けた。すでに光男とA子さんが、先に受け取っていたこともその時に聞いた。
◎気にいっていたバッグやショルダーが無いことに私は不満を口にしたが、盗んだ犯人がナイフかハサミで切り裂いた為、使いものにならなくなったからとの説明を受けその場は納得した。しかし、持ち上げるとその大型のスーツケースは重く、私はスーツケースそのものが好きではなかったこともあり、クアラルンプールに戻った時にデパートへ寄るように申し入れた。申し入れた理由はスーツケースに代わるバッグを探したいからだった。
◎その場ですぐにスーツケースの中を覗いたが、殆どの物が入っていたこともあり、居間のソファーにいたキャリーに、握手をしながら荷物を捜し出してもらった礼を言った。その時キャリーも恐縮している様子を見せていた。
◎自室に戻り、再度荷物をチェックしたところ、日本から持参してきた日本酒、日本のタバコ20ケ、雑誌や本などが無くなっていたが、小間物の一部を除いて殆どのものが戻っていたため、とりあえず良しとしてその場を済ませ、再度整理をしながら荷物をいれ直した。
◎確かにスーツケースは重かった。だからこそ適当なバッグがあれば、それを買って交換しようと思ったのだ。しかし、過去私はスーツケースを買ったことも無かったし、旅行で使った経験も無かった。だから後日警察や検察が問題にしていた“重い”ということについての疑問はその時は何も持たなかった。ましてや日本から持って来た大小二つのバッグの中身が、その大型のスーツケースの中に押し込められるようにして入れられていたのである。むしろ重いと感じて当然ではないだろうか。私は2年後、法廷に於いて弁護士とのひそかな話し合いの中で、裁判官に許可をもらい改めて実際にそのスーツケースを持ち上げてみた。当然中身の荷物は入ってはいってはいなかったが、ヘロインと同量の疑似粉末は入れられていた。そのときの感想として“私は検察が言うような不自然で異常な重さを感じない”と改めて弁護士にはっきり申し述べている。警察は“代わりのスーツケースが用意されたことに不審な気持ちがしなかったか”とか“スーツケースを持った時にその重さに異常を感じなかったか”とか、このあたりのことは随分と質問してきた。だから私も出来るだけ詳しく説明したつもりだった。人を見てドロボーと思えという様な、何でも疑い癖のある人ならいざ知らず、普通の一般人に対し同じ状況下で同じ質問をしたとしたら、その答えはどうだろうか。警察や検察が希望するような答えを出す人が本当にいるだろうか。もし何の事情も知らない第三者なら大半は“重い”と感じたとしても、それが検察が主張するような異常な重さであるとは答えないだろうと私は思えるのである。ましてやマレーシアに於いて荷物が盗まれた時、私は荷物は戻らないのではないかという気持ちに傾いていたし、半ばふてくされあきらめの心境にすらなっていたのである。そんなとき、荷物を捜してくれ、しかも切り裂かれて使えなくなったバッグの代わりのスーツケースまで用意してくれたのである。そう信じてなお不満や疑いをガイドにぶつける人間が果たしているだろうか。
◎しかし、現金なもので荷物の殆どが戻ると、再び不満も芽生えた。A子さんも後日言っていたが、鍵のかかっていないものまで何故切り刻む必要があるのか、その時私は怒りの気持ちとともにそうした疑問も当然持っていた。持参したバッグに私は鍵をかけていなかったし、ショルダーには施錠の仕組みすら付いていなかったからだ。
◎後でデパートからチャイナタウンに向かう時、たまたま一緒に同乗したキャリーにそのことを尋ねたが“盗んだ者の習性と言うか、癖から手っ取り早く中身を取り出す為にそうしたのではないか”との説明を彼はしていた。キャリーと私が同じ車に乗ったのは、マレーシアにおいてこの時一回のみだった。
◎正午ちかくになって我々一行はホテルを出た。このホテルの部屋を出る時以後、私たちが与えられたその大型の重いスーツケースを、再び持ち上げたり運んだりすることは全く無かった。キャリーらの同行者が移動時において、常にそれを運んでくれたからだ。
◎私たちはクアラルンプールの市街に向かった。市内に着いて、すぐキャリーの母親の家に車を付けられた。“再び荷物を盗まれてはたまらないから”とキャリーから説明があった。荷物を車のトランクから出す時に、改めてズタズタに切られた日本から持ってきたバッグを私はまじまじと見た。気にいっていたものだけに無残な姿のバッグを見て怒りが涌いたが、そのズタズタになったバッグは彼らによって家のすぐ近くにあったゴミ捨て場に運び出された。同時にトランクの中にあった新しいスーツケースや他の荷物のすべてがその家に一旦預け置かれた。
◎朝食と昼食を兼ねた食事を市内のレストランでとってから、申し入れていたデパートへバッグ探しに向かった。デパートには全員が入った。けっこう真剣に私はバッグを探したが、気にいるものがなかなか見つからなかった。そうした中でひとつだけ気に入ったバッグがあった。しかし、値段をみると数千ドルの値札がついていたので即座にあきらめた。結局私はそのデパートでバッグを買い求めることができなかった。
◎それでもバッグが欲しいという気持ちが相変わらず私にあり、その旨をキャリーらに伝えると、チャイナ・タウンの商店街にあるかも知れないと言ってくれた。私たちはデパートを出てすぐにチャイナ・タウンに向かった。しかしそこでもひどく粗品で安物のバッグしかなく、仕方なく私はせめて小物入れにと小さな手提げバッグを買うことにした。“オーストラリアにいけば、良いバッグがきっと見付けられると思う”との意見も言われたからだった。その小さなバッグの代金は私のそばにいたキャリーがすぐさま店主に払ってくれていた。
◎その後、時間は余り無かったがクアラルンプールの名所のひとつを案内され、土産品なども購入した。
◎簡単な観光を済ませてから、私たちは再びキャリーの母親の家に戻った。
◎チャイナ・タウンで購入した小さなバッグに、そこで私は小物を分け入れた。
◎夕刻私たち一行は、彼らと一緒に、クアラルンプールの空港に向かった。
◎家に預け置かれた荷物を車のトランクへ運び入れてくれたのも、トランクから荷物を出し空港内まで運んでくれたのも、空港において税関に荷物を運んでくれたのも、すべてキャリーら一行だった。税関の手続きだけは良男も一緒に行っていたが、ほとんど彼らが我々に代行してくれたのだった。
◎後日一緒に拘留を受け、裁判も受けた中国系マレーシア人のスーの存在は、我々には知る由しも無かったが、彼もこの時空港内のいずれかで搭乗を待っていたことになる。
◎スーは奇しくも搭乗席が我々の席の隣だったことが、裁判に於いて判明したが、確かなことは彼はいずれかの空席に移動していて、その席にはいなかったことを私は覚えている。
◎飛行機は予定のフライトを済ませ、オーストラリア、メルボルン郊外にあるタラマリン空港に翌早朝(午前6時)に到着した。
◎私たちは三々五々、他の乗客と一緒に到着ゲートをくぐり、税関でパスポートを見せてから空港内の荷受けロビーに入ったが、しばらくして、私はその場に雑多に集まっていた乗客の中に良男の姿のないのを知った。私より先に、私の手続きをした隣の窓口で税関の手続きをしていたはずだったが姿が見えなかったので、そば近くにいたC子さんらに尋ねると、彼女らも知らない様子だった。しかし間もなく税関員(後で移民局職員と分かった)に同行される形で、良男が荷受けロビーに入って来るのが見えた。
◎私は良男に何が起こったのかを尋ねるためすぐそばに行ったが、その職員はいきなり私の腕をつかんで離さなかった。つかんだままどうやらパスポートの提示を求めているようだった。私はとりあえずパスポートを職員に渡したが、すぐに私たち全員の拘束がその場に起こっていた。辺りを見回すと職員は一人ではなくすでに目立つ程に立っていた。
◎後で分かったことだが、良男はビザの取り消し処分を急遽受けていて、オーストラリアへの入国を拒否されていた。そのためすぐさま移民局事務所に連れて行かれ、簡単な質問を幾つか受けたとのことだった。そのとき良男は私たち全員のチケットを持っていて、それを移民局職員に自ら提示していた。そんなことから移民局職員にとっては、私たち全員の拘束が必要だったらしい。しかしそれでも、何故我々のパスポートまで没収するのか合点がゆかなかった。私たちは税関をそれぞれ手続きを済ませて通過しているのだ。
◎当日タラマリン空港では空港職員のストライキがあり、荷受けロビーに荷物が出て来るまで約一時間待たされたが、その間単独でロビー内のトイレに行くことすら規制された。私は何故このような規制にあうのかその時、依然として理由が分からなかった。他の者とて同様だったろうと思う。指名手配を受けている者が税関で見つかったというのなら話しも分かる。しかし、何があったのか、何故そうされるのか全く思いつくことがないのである。全くもって失礼な対応だと私は腹がたった。しかし英語の言葉の分からない私たちにとっては確認の仕様も抗議の仕様も無かった。
◎荷物を受け取ってから私たちは一般乗客が利用するゲートとは異なった別のゲートから出るよう指示され、更にゲートとを出てすぐ近くに設置されていたカウンターに荷物の一切を載せるように指示された。それが検査のためであることは瞭然としていた。
◎私が持っていた手提げのバッグとスーツケースへは、いずれも自分の持物ばかりを自ら確認整理しながら入れたし、見られてまずいものなど何も入っていない。調べたければ気の済むまで調べたらいいと思っていたので、指示にも素直に従っていた。持って来た荷物からおかしな物は何も出てこようはずは無いし、検査はそれで終わるだろうとも考えていた。
◎私は職員の指示に従って、カウンターにスーツケースや手提げのバッグを載せ、中の荷物の検査を受けていたので、その現場にを直接私は見てはいなかったが、スーツケースは交互にレントゲンによる検査も受けていたらしい。どうやらそれは、別のカウンターに設けられていたベルトコンベアに荷物を載せてくぐらせていたが、その時検査がそれだったようだ。そしてそこに異物が隠されていることが判明したとのことだった。
◎全員の持物について検査が終わってから、今度はスーツケース本体の検査が始まった。
◎この時までまさかスーツケースの側面が非常に巧妙な作りで二重構造になっていて、しかもその僅か2センチ程の隙間に、小袋に分けられ入れられたヘロインが隠されていたとは、一体誰が予想出来ただろうか。もっとも隠されて入っていた物がヘロインと分かったのは、その後空港警察で事情聴取を受けた時、通訳を通して説明があったからだ。しかし検査がすすめられていくなか、何か重大な事が起こっているということは、周りにいつの間にか出来ていた人垣のような空港職員や警察官などの数からも理解出来た。
◎私が職員の行う検査を熱心に眺めたのは、電動ドリルが届き、それを使ってスーツケースの側面に小さな穴をあけ始めた時からだった。その検査を身近にみていた私は空けられた小さな穴から黒色のタールのようものが、試験液の入ったガラス容器の中に入れられたのを見た。だから私は空港警察署で白い粉と言われたとき、すぐにピンとはこなかった。しかし私が見た黒色のタールのような固形物は、ドリルで穴をあけたときのスーツケースの削られた屑だと後でようやく理解出来た。
◎この時点現場において、日本に帰国したC子さん、B子さんらも一緒に職員に全身を使って(ゼスチャーを交えて)片言の英語で説明したが、しょせんは無理な話だった。しかし、私たち一行をガイド案内するために空港に迎えに来ていた中国人通訳者がいて、とても充分とはいえないまでもマレーシアで起こった盗難事件や代用に与えられたスーツケースのことなどの最低限の説明は出来たと思っていた。
◎試験液の中にスーツケースからの異物を入れて振っていた係官が、液体に出た反応を見てから、すぐにそれを高々と手でかざし何かを周囲の者に訴えていた。その仕草を見て、私は何かの麻薬らしき物がスーツケースに隠されていたんだということを理解出来た。同時に、全く身に覚えのない事とは言え、この様な事態に巻き込まれてしまったていることを、この言葉も通じない国でどう説明したら分かってもらえるのかという思いにもかられていた。
◎およそ私にとって(他の殆どの者もそうであったろうと思うが)縁の全く無かった麻薬が、スーツケースから発見されたことは、驚くべきことであるに違いは無かった。しかし、あまりに無縁すぎたり現実離れしていることゆえ、まるで他人事を見ているような気にさえなっていたのは不謹慎なことだったろうか。まるで映画のひとシーンを視聴者として見ているようなそんな気持ちにも思えた。だから一時の大変なことになったという思いも、やがて逆に妙にさめた気持ちになっていたし、しまいにはシラケタ気分にすらなっていた。自分の持ち込んだスーツケースの中から麻薬が出て来たという事が、どうしても実感として涌かなかったのである。
◎検査は警察犬の臭覚検査に移っていた。日本でも麻薬などの密輸事件に警察犬が活躍していることはテレビなどでも紹介されているので、どこの国でも同じなんだななどと考えながら見守っていた。麻薬捜査に使われる警察犬は麻薬に関係の無い荷物は例えそれに犬の好物が入っていたとしても、噛みついたりしないよう訓練されていると聞いていた。しかし連れてこられた4〜5頭の警察犬の一頭が、私の手提げバッグに噛みついた時には驚いた。マレーシアのチャイナ・タウンで購入してからその手提げバッグは私の身辺より離すことは無かったので、その中に麻薬が入れられているなど考えられなかったからだ。結果として麻薬は入ってはいなかったことを後で警察より聞いて安心したが、何と人騒がせの警察犬だろうと思った。おかげで私の手提げバッグは再びズタズタに噛み裂かれてしまっていた。
◎その後、私たちは別々に空港敷地内にある警察署に連れてゆかれ、事情聴取を受けた。供述の後、ホテルに向かい、そのホテルに二日間滞在した。私たちはいわゆるオトリ捜査の餌だった。しかしホテルには一日遅れで来る予定のキャリーも来なかったし、麻薬を受け取る風な人物もあらわれなかった。そして三日後にはオーストラリア連邦警察本部で朝から深夜に及ぶ2度目の事情聴取を受け、その夜は同本部内にある宿泊施設に、3〜4名の警察官の監視のもとで浅見さんと一緒に泊められている。さらに四日後には裁判所の隣にあった警察署の留置場に入れられたが、この四日間の出来事はその殆ど全てが録音録画されているので詳細は省くが、私にはこの四日間、自分なりに事件や警察の姿勢、あるいはプライベートなことも含めて考えていたことが数多くあった。
◎まず私には、身柄を拘束されていたとは言え、警察署の留置場に入れられる直前まで全く認識していなかった事柄があった。その認識していなかった事柄とは、自分が逮捕されていたという事の認識だった。私にはその自覚が無かった。身柄を拘束されていたとは言え、事を簡単に考えていたのかも知れない。麻薬が出て来たといっても、それは私にとっては現実味のあることでは無かったし、警察で受けた事情聴取にしても、それは麻薬と自分が何の関係も無いことを証するためのものと考えていた。旅行のいきさつを聴きたいと言うから正直にそれに答え、ホテルに行ってオトリ捜査の協力が欲しいと言うから素直に警察に従って協力した。自分たちの立場は参考人であり、捜査の協力者なのだと思っていた。そう思っていたからこそホテルで私は、捜査の方法についてまで警察に口をはさんだのだ。実際C子さんとB子さんの宿泊する予定で組まれていた部屋、しかも既に二人が入って荷物の整理を始めていた部屋を、私と浅見さんの宿泊部屋に変更させたのは私だった。警察のオトリ捜査の姿勢に、どうしても同意出来ない理由が私にあったからだった。通訳者を通しての説明で警察も納得してくれたので急拠部屋替えを行ったが、こうした言動を取ったのも、私に逮捕された者という感覚や認識が無かったからこそだった。
◎事情聴取の際には常に通訳者がそばにいたが、その通訳者を通して、“これこれの容疑で逮捕します”とか“されています”といった逮捕の事実についての説明を何も聞いていないことや、これから先自分たちがどうなるかなどの説明も全く無かったことも、私が逮捕されていることの認識が出来なかった要因になっていた。
◎またマレーシアにおける盗難事件の目撃者や、証拠の確保にすぐに警察があたってくれれば、自分たちが密輸事件に無関係であることが分かってもらえるとも考えていた。マレーシアで盗難被害に合った時その騒ぎを、すぐそばにいたレストラン専従と思える車の整理人が成り行きを見ていたはずなのだ。私はそこに二人の整理人がいたのをはっきりと目撃して覚えている。
◎逮捕された認識が無かったから、わざわざ領事館の人に来てもらうことにも気がひけたし、弁護士を呼ぶ必要も感じなかった。ある程度捜査が終了すれば自由が戻るのだと私は信じていた。だからマレーシアでもそうだったように、その時もやはり私は身近に起こることだろう困り事や不便事を随分考えていた。例えば、こんな状態になっても予定通りシドニーへ行けるのだろうかとか、予定が変わったらホテルの予約はどうなるのだろうとか、更に日が伸びたら日本で通っていた自動車教習所の乗車教科の予約キャンセルしなければならなくなるとか、今考えると実に馬鹿げてはいたが、そんな心配ばかりをしていたのである。自分の置かれている現状について、正しく理解出来ていなかったからである。
◎容疑者として人を逮捕拘留するのであれば、その申告くらいはして欲しかったし、それは逮捕する側の欠くべからざる義務では無いのか。しかも、風俗も習慣も違い、言葉すら通じない異国人なのだから余計配慮が欲しかった。ましてやこの事件について、私は犯人であるどころか、逆に被害者意識しか持っていなかったから尚更のこと逮捕されていることの認識が無かったのである。
◎その為、いきなり留置場や刑務所に入れられた私は、どれだけつらい思いをしたかわからない。洗面道具はおろか着替えの一切を持たされず、ふだん着のままいきなり拘留された者の苦しみは誰が分かってくれるだろうか。精神的苦痛と寒さで震えながら、着のみ着のまま送った生活は一生忘れることがないだろう。寒さと精神的ショックからか、私は三日後に右手の中指と左足の小指の付け根部分の神経を痛め、長期間にわたってつらい思いもした。
◎私たちの宿泊したホテルの部屋は、いずれも扉によって隣の部屋と行き来できるツインの作りになっていた。オトリ捜査で私たちがメインの部屋に宿泊し、隣室(勿論その隣室の部屋にも部屋表示のルームナンバーが付いていて独立した部屋として利用できた)には、それぞれ数名の警察官と通訳者が待機していた。待機といっても、私たちのそれぞれの部屋に取り付けられた、ビデオカメラやマイクロホンにより常に動向は探られてはいたが、その隣室で警察官がポルノビデオを見ていたのを私は目撃しているからだ。ポルノビデオを見ながら捜査にあたっているなど、まるで時間潰しをしている様ないいかげんなものとしか私には思えなかったのだ。連邦警察の捜査の姿勢やマナーの悪さは、私が関係した最後まであきれるものがあった。
◎裁判において現実に92名に及ぶ証人を集めてきたのも、またその証人の証言にしても、私には狂気の沙汰としか思えなかった。その証人の大部分が、空港において人垣のように立ち並んでいた、空港職員と警察官だったからである。いわゆる“枯れ木も山のにぎわい”を地でいったことになる。これも逮捕そのもには根本的な無理があったからこそ、結果としてこの様ななりふり構わぬ内容になったのではないかと私は思えるのである。
◎報道機関の発表(1992年6月22日付け新聞・テレビ)も、かなりいいかげんだった。警察がいいかげんに発表したからこそ、報道機関がそれを忠実に伝えたものと私は思っている。このでたらめな発表についても、私は警察の計算された発表であったろうと考えている。オーストラリアの裁判は陪審員制による裁判なので、将来陪審員となる一般人向けの伏線として、また陪審員に与える心理的影響を考えて行ったものであろう。事実、マジストレートコートに向かった時、事件後半年も経過していたにも関わらず、裁判所内の別の法廷の廊下で、小さな子供(10才位の少年)に“ジャパニーズマフィア”と言われた際、私ははっきりとそのことを悟った。
◎拘留2年後の1994年2月から6月にかけてカウンティーコートが開かれたが、この裁判に於いて私たちは不当な扱いを多々受けた。
◎私たちは92年のマジストレート・コートも、94年のカウンティー・コートも、裁判が始まる極めて直前まで弁護士は得られていなかった。以前に耳にしたことがあるが、拘束を受けた被疑者が、拘束後半年にもわたって弁護士が付いていない、あるいは付けられていないというケースは非常に異常なことらしい。その異常なケースの状況が私たちにあったことになる。したがって私たちは弁護士とのコミュニケーションが全く不十分なまま裁判を迎えている。私の場合は両方の裁判を合わせても僅か3回の面談のみだったし、他の者とて同様の状況だった。
◎しかも英語の殆ど分からない私たちにとって、裁判は通訳者だけが頼りだった。しかし審議されているその内容について翻訳されるのは一部だけだったし、まるで雲をつかむような裁判だった。分からない事だらけで弁護士に質問したくても、通訳者は“そういうことは連邦警察に止められているから出来ない”と冷たい返事が帰って来た。私たちは法廷において質問する事も、審議の内容を確認する事も、また反証を弁護士に伝える事すらも出来なかった。そのくせ通訳される内容は全体の一部のみならず、誤訳が結構あるものだったのである。通訳者の交替を頼んでも、結局聞き入れられなかったし、後日に分かったことだが、裁判事態も誤訳の多い供述調書に基づいて行われていた。これらはすべて裁判の前提条件においてのミスといえるだろう。
◎この事情聴取の誤訳の問題についてはマジストレート・コートの担当弁護士や、オーストラリア人通訳者のクリス・ポール氏も指摘していたらしいが、カウンティー・コート担当の殆どの弁護士は、問題視していなかったように思える。またそうした傾向は現在も変わっていない。もし誤訳が多かったことや通訳者の能力が低かったことを認めれば、裁判時において彼ら担当弁護士の弁護ミスとなってしまうからだ。たとえどんなにお粗末な弁護であったとしても、彼ら弁護士は“最善だった”“ベストを尽くした”“我々にミスは無かった”としか当然語らないだろう。オーストラリア人のプライドは、イギリス人の血を引いているためか、かなり高く感じられるから尚さらのことである。日本人のように非があれば簡単に謝るような気質は、ここには無い。
◎また一緒にオーストラリアに来て日本に帰国を許された二人の女性(C子さんとB子さん)に対する、検察側の対応にも私は非常な不満がある。検察側はマジストレート・コートにおいてこの両名に対する説明で、“麻薬密輸の計画にあたり、事件をカモフラージュするため、麻薬の運び屋の他に、犯行グループとは全く関係しない一般人が必要だった。その事件に全く関係しない一般人として用意されたのが、C子・B子だったと我々は考えている。ヘロインも持っていなかったし、犯行グループとは認められなかったので二人を日本に帰した”などと言っていた。ところが、カウンティー・コートで私たちの無罪を弁明するための証人として召喚する話が出た途端、検察側は態度をガラリと替えてきた。この両名に対して検察は、“二人を日本に帰したのは間違いだった。我々はこの両名も麻薬密輸グループの一員と考えている。だからもし両名がオーストラリアに召喚に応じて来るというのなら、我々は彼女らを逮捕拘束する予定がある”など手を反すように主張してきたのである。不利になることはなりふり構わず徹底して除こうとする、そんな検察側の姿勢がそこには見える。こうした、事態に合わせて優柔不断に言葉を覆してくる検察側の姿勢にはただあきれるばかりであった。
◎担当裁判官に日本人に対する偏見、また麻薬密輸事件に対する偏見が見受けられ、不公平な扱いが多々あったこともそうだ。特にカウンティー・コートの担当裁判官に、重大なミスを犯した可能性がある。その可能性のある重大なミスとは、形式にのっとり裁判が終了しいよいよ陪審員による評議が始まろうとした時、それ以後陪審員は裁判官といえど接触禁止されているはずだが、その裁判官と陪審員各位との間で面談が行われた事だ。ただでさえ裁判において偏見の見受けられた裁判官が、公式な記録の残らない会話を弁護士不在の中で陪審員と交わした事実は、決して軽いミスとは私には思えない。そのような状況が起こったのは、陪審員から裁判官に質問が行われた為だったが、裁判官は陪審員からの質問に対して、その件については後で答えると言ってその場での応答を避けた。陪審員からの質問とは、被告6名のうち誰かが有罪、また誰かが無罪と判決が分かれてもそれでいいのか、というものだった。非常に重要な質問だったし裁判官はその場でその質問に答えるべきだった。もしその会話の中で、偏見のあった裁判官の私見など語られていれば、シロもクロに変わってしまう程の影響を、平均年齢が二十代半ばと若かった陪審員たちに与えかねないからだ。しかし、不思議なことに各弁護士も誰1人として異議を挟む者はいなかった。
◎私たちが実質的な審議で受けた裁判は、多々の不当な扱いの中で有罪とされたこのカウンティー・コートただ一回のみだった。カウンティー・コートは日本では第一審にあたる裁判である。当然オーストラリアといえど判決に不満のある者は、上訴(第二審:シュプリムコート)や上告(第三審:ハイコート)が出来る。しかし日本の裁判と違ってオーストラリアの場合、上訴や上告においては事件や提出された諸証拠、また審議の荒い直しに関する討論は全くされることは無い。上訴・上告で審議されるのは、担当裁判官の起こしたミスとか、検察側が裁判時に起こしたミスとか、また陪審員選定方法の異議とかそんなことばかりで、調書に誤訳が多かった、容疑が薄い、証拠が不十分、新証拠が出た、検察側の証言に事実とは異なった内容があるなど、およそ嫌疑のかかった事件に関する事実認定事項で討論されることは全く無いのである。あったのは法律論争に伴う判例や前例の引き合い合戦だった。そのため上告上訴では、全く担当弁護士とのコミニュケーションも無く、ただ“任せて下さい”というのが各弁護士の姿勢だったのである。
◎私はキャリーの存在が当事件の主犯であり、当事件に於いて最大無比の証拠となり得ると考えている。そして同時に私が現在最も強調し述べたい事は、当事件を仕組んだ張本人というべき最重要人物のキャリーが国際指名手配されていた中で、別件とは言えマレーシア警察によって逮捕されたが、このキャリーに対しオーストラリア連邦警察や関係当局が積極的な対応を行おうとしない事だ。盗難劇を演じられ騙されて、スーツケースに仕込まれたヘロインを知らずに持ち込んでしまった私たちが有罪とされ15年の懲役刑を受け、“あの人に騙されたんです、あの人が犯人です”と指名出来る人物が、この事件に関して野放しにされていることになる。こんな不可解な事があっていいのだろうか。私は事件発覚直後から逃走し、国際指名手配されたそのキャリーさえ逮捕されればこの事件は解決し、事情聴取で述べた供述が真実に基づくものであり、主張していた通り私たちの無実が誰にも分かってもらえると信じていたのだ。私たちが無実であることを証明出来る証拠として、私はキャリー以上の有力な証拠は当事件に於いてはあり得ないと信じている。しかし、こうした新しい証拠が見つかってもオーストラリア関係当局の対応は周知のとおり、殆ど動こうとはしていないのである。マレーシアに於いて身柄を拘束されているキャリーの服役が終了次第、早急にオーストラリア国家が責任をもって彼の身柄を当事件の最重要人物として再拘束し、オーストラリアに送検させるよう処置をとってもらいたく強く私は要望したい。
◎またマレーシアに於いて、盗難事件の騒ぎをつぶさに見ていた目撃者についても同様で、“盗難事故は無かった。綿密な計画の中での麻薬の密輸を組み立てていった彼らは、単に口裏を合わせてそう言っているだけだ。それは彼らの作り話なのだ”など検察が裁判で主張し、私たちがマレーシアで被害にあった盗難をでっちあげだと決めつけている。また、それを裁判官が認める発言を繰り返すなど、私たちを犯人グループと仕立てる為の立証の言葉として使われている。しかしそうした検察の主張に対し、裁判を受けていた当時、私たちには反証する手だてが無かったのだ。こうした反証する手だての無い一方的推測に基づく発言の積み重ねによって、私たちは不幸にも有罪判決を受けてしまったが、盗難事件を真近かで見ていた目撃者が後日とはいえ見つかった以上、その反証として価値が無いとは私には到底考えられない。しかもその目撃者の供述調書は取れている。この目撃者の証言は、私たちの無実を証明する極めて有力な証拠のひとつだと私は堅く信じている。
◎以上、事件のあらましや裁判における状況について、私見を交え簡単に述べて来たが、言葉も通じず、オーストラリアの裁判形式の何もかも理解していなかった私たちは、弁護士とのコミュニケーションを殆ど得られず、全く不充分な通訳しか与えられないまま裁判に臨まされ、しかも通訳者は連邦警察や検察側に立った不公平な人だったし、裁判そのものが誤訳の多い調書に基づき行われ、その通訳者の間違いすら我々の攻撃材料として裁判で使われていたのである。また被告の当然の権利として希望した分離裁判も受けられず、更に裁判官や裁判そのものの中に日本人に対する偏見、あるいは不公平、ミスが多々見受けられる裁判しか受けられなかったのだ。これが法治国家と誇る国での裁判だと果たして言えるだろうか。これほどの不当な扱いが裁判にあり、また無実を証明するための新しい証拠が見付けられてもなお再審が道が開かれないとすれば、これはオーストラリアの裁判体系や体質の、どこかに大きな問題があるとしか私には考えつかない。だから、新聞や一般世論等では私達のアピールの機会は終わり、刑が確定したような内容の事も書かれたり言われたりしているようだが、私は当然のことそうは考えていない。もし本当に再審の機会が得られないとすれば、残念な事ながら、私はこの国の裁判体系に於いての秩序と正義に、疑問を感じざるを得ないのである。
オーストラリア・フルハム刑務所にて
1999年4月13日
勝野正治
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